荷風と散歩
最近中高年の間で流行の東京散 歩というものの元祖は永井荷風だと言われている。明治の終わりにフランスから帰国した荷風がパリ市民の風俗を日本で実践したというのだ。でも荷風の散歩哲 学はディレッタンティズム以上のものがあったように思う。荷風にとって散歩とはなにか、その4つの側面。その過程での発見。荷風が子供時代遊んだ代官 町の土手には当時の榎が残っていた!
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最近東京の街歩きをすると高齢者夫婦が二人連れで歩い て居られるのに頻繁に出くわす。散人もうろつき歩く高齢者だから人のことは言えないのであるが、ガイドブックを手に歩いて居られる人や、カメラでいろんな 写真を撮って居られる人や、はたまた食べ歩きを目的とされて居られるような方とか、とにかく多い。本屋に行けばこの手のガイドブックが山と積んで売られて いる。いまや「東京街歩き」は完全に一つの風俗・趣味として定着した感がある。とてもいいことだと思うが、物の本によると江戸時代にはこんなことはなかっ たらしい。基本的にみんな忙しかったこともあるが、ふらふらと目的もなく歩き回るのは奇異の目で見られたようだ。この散歩というものを日本で最初に意識的 に実行しはじめたのは、衆目の一致するところ、明治40年代の永井荷風である。
永井荷風はアメリカ、フランスでの留学を終えて帰国し たのが明治41年。慶應義塾大学で創刊した雑誌「三田文学」に明治43年から連載した『日和下駄』が日本の散歩文学の元祖とされる。荷風はこの中で都市生 活者としての散歩の美学を確立したと言ってよい。この中で荷風がフランスの散歩の習慣とディレッタンティズムを引用しているところから、荷風がフランスの 習慣を日本に持ち込んだとする見方がある。たしかに荷風は「私の趣味のうちには自ずからまた近世ヂレッタンチズムの影響も混ざっていよう」とフランスでの 散歩の習慣につき長々と紹介している。荷風はフランス人のように「社会百般の現象をば芝居でも見る気になってこれを見物して歩いた」ことに間違いはない。 「深川の唄」には市電の中での実に細かい人間観察がある。荷風は半ばサディスティックにこの観察を楽しんでいた。でもこればかりではない。
荷風にとってそれ以上に重要だったのは「江戸への回 帰」であった。古くからのものを惜しげもなく破壊して薄っぺらな近代を建築していた明治の時代に、荷風は明治政府の悪口を散々言いながら、東京市中の散歩 でわずかながらも残っている古い江戸を発見して驚喜したのであった。これは今どき流行の「路上観察」とは別種のもので、荷風は東京を散歩することで時間空 間を散歩した(タイムトリップを試みた)ともいえる。「(散歩を楽しむためには)是非とも江戸軽文学の素養がなくてはならぬ。一歩を進むれば戯作者気質で なければならぬ」と荷風は断じる。荷風にとっては昔を思い起こさせるものは、普通の人が見れば全くつまらないものであっても、驚喜するほどうれしいもので あったのだ。荷風の学者としての蓄積と博識が、単なる散歩を至福の娯楽にまでに高めしめたのであった。
しかしそればかりでもない。荷風は散歩をしながら考え る人でもあった。ベートーベンが田園を週日歩き回りながら「田園交響曲」の構想を練ったように、荷風も歩きながら作品の構想を練った。また材料の収集を 行った。天下の名作『濹東綺譚』はこうして書かれたし、随筆「放水路」では荒川沿いを歩きながら人生の荒漠をしみじみと哲学する荷風の姿が見える。荷風の 思索は散歩をしながら過去に将来にと無限に広がっていったのである。
加えて最後に、荷風にとっての散歩は「探検」であった ことにも触れなくてはならない。荷風は子供時代から見も知らない道を探検するのが好きだった。それは『日和下駄』にも書かれているが、その路地を曲がれば 何があるのか知りたい、この道はどこに通じているのかを知りたいという、とても子供らしい好奇心である。荷風はこの子供らしい好奇心(冒険心)を最後まで 失わなかった。晩年に書いた「葛飾土産」は「この川はどこに通じるのだろうか」という荷風の好奇心がテーマだ。とても詩情にあふれるいい作品だと思う。荷 風は最後まで子供の心を失わなかった人でもある。
このようにいろいろの要素を併せ持つ荷風の散歩はまさ に「散歩の総合芸術」と言えるかも知れない。
最近『日和下駄』で荷風が子供時代に学校からの帰り道 に遊んだという記述の中に出てくる代官町の榎が現在でもまだ残っているのか急に知りたくなり、代官町に行ってみた。当時の近衛師団は現在国立近代美術館の 工芸館となっている。その向かいあたりに、まさに荷風の記述通りの場所に榎が残っていた。平成の現代にもまだ荷風を偲ぶ風景が残っていたことに、私は驚喜 した。
最近東京の街歩きをすると高齢者夫婦が二人連れで歩い て居られるのに頻繁に出くわす。散人もうろつき歩く高齢者だから人のことは言えないのであるが、ガイドブックを手に歩いて居られる人や、カメラでいろんな 写真を撮って居られる人や、はたまた食べ歩きを目的とされて居られるような方とか、とにかく多い。本屋に行けばこの手のガイドブックが山と積んで売られて いる。いまや「東京街歩き」は完全に一つの風俗・趣味として定着した感がある。とてもいいことだと思うが、物の本によると江戸時代にはこんなことはなかっ たらしい。基本的にみんな忙しかったこともあるが、ふらふらと目的もなく歩き回るのは奇異の目で見られたようだ。この散歩というものを日本で最初に意識的 に実行しはじめたのは、衆目の一致するところ、明治40年代の永井荷風である。
永井荷風はアメリカ、フランスでの留学を終えて帰国し たのが明治41年。慶應義塾大学で創刊した雑誌「三田文学」に明治43年から連載した『日和下駄』が日本の散歩文学の元祖とされる。荷風はこの中で都市生 活者としての散歩の美学を確立したと言ってよい。この中で荷風がフランスの散歩の習慣とディレッタンティズムを引用しているところから、荷風がフランスの 習慣を日本に持ち込んだとする見方がある。たしかに荷風は「私の趣味のうちには自ずからまた近世ヂレッタンチズムの影響も混ざっていよう」とフランスでの 散歩の習慣につき長々と紹介している。荷風はフランス人のように「社会百般の現象をば芝居でも見る気になってこれを見物して歩いた」ことに間違いはない。 「深川の唄」には市電の中での実に細かい人間観察がある。荷風は半ばサディスティックにこの観察を楽しんでいた。でもこればかりではない。
荷風にとってそれ以上に重要だったのは「江戸への回 帰」であった。古くからのものを惜しげもなく破壊して薄っぺらな近代を建築していた明治の時代に、荷風は明治政府の悪口を散々言いながら、東京市中の散歩 でわずかながらも残っている古い江戸を発見して驚喜したのであった。これは今どき流行の「路上観察」とは別種のもので、荷風は東京を散歩することで時間空 間を散歩した(タイムトリップを試みた)ともいえる。「(散歩を楽しむためには)是非とも江戸軽文学の素養がなくてはならぬ。一歩を進むれば戯作者気質で なければならぬ」と荷風は断じる。荷風にとっては昔を思い起こさせるものは、普通の人が見れば全くつまらないものであっても、驚喜するほどうれしいもので あったのだ。荷風の学者としての蓄積と博識が、単なる散歩を至福の娯楽にまでに高めしめたのであった。
しかしそればかりでもない。荷風は散歩をしながら考え る人でもあった。ベートーベンが田園を週日歩き回りながら「田園交響曲」の構想を練ったように、荷風も歩きながら作品の構想を練った。また材料の収集を 行った。天下の名作『濹東綺譚』はこうして書かれたし、随筆「放水路」では荒川沿いを歩きながら人生の荒漠をしみじみと哲学する荷風の姿が見える。荷風の 思索は散歩をしながら過去に将来にと無限に広がっていったのである。
加えて最後に、荷風にとっての散歩は「探検」であった ことにも触れなくてはならない。荷風は子供時代から見も知らない道を探検するのが好きだった。それは『日和下駄』にも書かれているが、その路地を曲がれば 何があるのか知りたい、この道はどこに通じているのかを知りたいという、とても子供らしい好奇心である。荷風はこの子供らしい好奇心(冒険心)を最後まで 失わなかった。晩年に書いた「葛飾土産」は「この川はどこに通じるのだろうか」という荷風の好奇心がテーマだ。とても詩情にあふれるいい作品だと思う。荷 風は最後まで子供の心を失わなかった人でもある。
このようにいろいろの要素を併せ持つ荷風の散歩はまさ に「散歩の総合芸術」と言えるかも知れない。
最近『日和下駄』で荷風が子供時代に学校からの帰り道 に遊んだという記述の中に出てくる代官町の榎が現在でもまだ残っているのか急に知りたくなり、代官町に行ってみた。当時の近衛師団は現在国立近代美術館の 工芸館となっている。その向かいあたりに、まさに荷風の記述通りの場所に榎が残っていた。平成の現代にもまだ荷風を偲ぶ風景が残っていたことに、私は驚喜 した。
代官町の榎(2003.3.16撮影)